遺影写真の撮り方について

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 冬の雪の白い光のなかを歩くと、たまに降雪地帯に住む人の死生観について考える。上の写真の真ん中はぼくの母親で、これをぼくはいつも手帳に入れて持ち歩いている。家に仏壇のようなものもないし、墓参りも行ったり行かなかったりで申し訳ないと思っているけど、実質これが母親の遺影みたいなものだ。
 ぼくの母親は2月に死んだし、父方の祖父はクリスマスの夜に、母方の祖父母も冬の寒いときに死んだ。多分ぼくだってこのまま盛岡に住みつづけるなら、冬の寒い時に弱って死んでいくんだろうなあと漠然とおもってる。雪国生まれでも寒いのは大の苦手で、もっと暖かい土地に移住したいと思っているのに、死ぬときは雪の降る場所でしずかに眠りながら死にたいと思っているところもなくはない。
 自分の母親が死んだ時の記憶は強烈に残っていて、わざわざ思い出したりしようとすることもないけれど、わりと写真がなくても映像的に記憶に刻み込まれていると思う。でも、その他の身内の死については淡白なもので、もしかしたらあの人とこの人の葬式がごっちゃになっていて、話してもつじつまが合わなくなることだってあるかもしれない。

 だいたい葬式とか通夜とかを写真に撮って残しておくことを、ぼくもまわりの家族もあまり一生懸命やっていなくて、手元にそういう写真はなかったりするんだけど、例外的に、嫁さんの実家で飼っていた柴犬の「さくら」が、2014年の1月2日、正月に帰省した日の翌日に死んだときの写真は残っていて、それを親戚でもなんでもない誰かに見せることがある。誰かに見せたいというよりも、自分が定期的に見返したいだけなのかもしれなくて、それは冬の光のなかで力尽きて死んでいく生き物の私達の死が、日常と地続きで、決して特別でもなんでもないんだということがはっきり写っていて、逆にそれが力を与えてくれるからだ。この写真を撮っているときのぼくは、さくらが翌朝死んでしまうなんて思っていなくて、家族の全員がそんな感じで、正月の賑やかな食卓と対比された死が素直に写っている。
 遺影写真って、こういうものだ。つまり、毎日撮っているものの延長に必ず死があることをわたしたちは知っていて、たった今撮ったものが最後の写真になるかもしれないところにわたしたちすべてが立っている。だからたまに、おばあちゃんとかに、わたしの遺影写真を撮ってちょうだいとか言われても困ってしまうのは、なんだかそれが人間の意図によって作られるものではない気がするからで、はいわかりましたといってその時は何枚か撮って見るけれど、どんな手応えもないし確信もなく、ただただ今を記録しているだけのことだ。
 

 嫁さんの愛犬さくらの写真、あなたにも見てもらいたい。
 

写真takamune ito