人生最後の食事

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 だいぶ前に料理王国という雑誌でやっていたリリー・フランキーさんの連載が好きでよく読んでた。


 架空の料理 空想の食卓 という本にそれがまとめられていて、なかでも忘れられないのが、最終回の、「最後の晩餐になにを食べたいか?」というテーマのエッセイだった。リリーさんはスパゲッティとハンバーグでした。


 これを読んでからというもの、ぼくは会う人をつかまえては、あなたが人生最後に食べたいものは何かときいてまわって、たぶん周りにうっとうしい思いをさせていただろうけど、それをメモして、メニューの写真と、なぜそのメニューなのかという理由みたいなものを蒐集するということやっていた。
 


 その人にとって無限といえるほど存在する選択肢のなかから、何かを選ぶということに、何かその人の特性みたいなものが現れて、それがポートレートのようでもあるなと思ってそうしていたわけだけど、やってみたら思っていたほどバリエーションがないことがわかった。


 誰かの、その問いへの答えがサンドイッチだとかパンだとかわかる。するとアラビア語でパンは "Aysh" と書いて、それは同時に生命を意味することに行き当たる。カップラーメンだとかパフェだとかいう答えの意味も、生命そのものに思えてくる。ああ、なんだっていいんだな。生命そのものも塵から生まれて塵に還るのだから、何を選ぼうが深い意味はないのかもしれない、という結論に至ってからはそういうこともやめてしまった。
 


 ぼくの母親が最後に口に入れたのは一杯の水だった。


 ぼくにとってその数ミリリットルの水道水が、どういった形状の雲から生まれて、どのあたりの山野に降り落ちて、どの流水路を経て母親の口に入っていったのかを想像させるほど特別な意味をもつように思えた。水道の蛇口をひねるだけで出てくるその水が美しいとか尊いとか思う時がくるとは、それまでなかったことだ。


 でも、水は水でしかない。


 それに意味をつけているのは人間で、水という言葉がなければそれは水ですらない全体性の一部で、人間の概念で世界を理解しようと、勝手にいろいろ線を引いたり飾り付けたりしているだけで、その装飾を剥ぐことができたら、そこには何もなくなると思うのだ。


 答えがあるようで、答えがない。



 問いこそが大事なのかなと最近では思うようになっている。

 
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