新しいもの、古いもの

 

ある結婚の日の撮影。


写真を撮った場所には、古い在来工法の建物があった。

長い時間を経て、いまも誰かの生活の場として使われている。

その家の中に、ウェディングドレスを着た人がいる。

この光景を見ていて、ふとおもったこと。



「これは、古いのだろうか。
それとも、新しいのだろうか。」

いま日本で当たり前のように見ているウェディングドレスも、長い歴史から見れば、もともとは新しいもののだったはず。

戦後から80年以上が過ぎようとしている。
親が着て、子が着て、そのまた次の世代へ。

3〜4世代にわたって続いていけば、それはもう「新しいもの」とは呼ばれない。

かつて新しかったものが、いつの間にか生活の一部になっている。

そう考えると、「古いもの」と「新しいもの」の境目は、思っていたより曖昧なのかもしれない。

流行には、始まりがある。
広がって、消えていく。

では、残るものは、どうして残っているんだろう。

世代を越えて残っていくものは、必ずしも「残そう」として残るわけではないのかもしれない。

誰かが使い続ける。
誰かが受け継ぐ。
また誰かが、その中で生きていく。

そうしているうちに、それは特別なものではなくなって、生活の中に馴染んでいく。


「残るもの」と「残そうとするもの」は、少し違うのだと思う。

 
 

写真は、いま目の前にある、そのときを撮っている。

今回もそう。
この2人にとっての、結婚の日。

その一日を撮った。

ただ、撮りながら、その一日がもっと長い時間の中にあるように感じる。

古い家。
ウェディングドレス。
結婚のお祝いをする人たち。

それぞれ別々に見えていたものが、急に、ものすごく長い時間の中に置かれて見える。


古い家も、ウェディングドレスも、結婚という営みも、いつかの誰かが未来のために残したものではない。

ただ、そこにある。
使われていく。
続いていく。

その結果として、いま目の前にある。

いま自分は、それを撮っている。
ずっと昔の生き物たちも見てきた水平線みたいに。


水平線は、誰かがつくったものではない。
流行でもない。
新しくも古くもない。

ただ、そこにある。

人間が生まれて、暮らして、結婚して、死んでいくよりも長い時間の中にある。

水平線を見るように、目の前の一日を見る。

写真を撮っていると、ときどき、目の前にそういうものがある感覚をおぼえる。

2026年、岩手・野田での結婚の日。

takamune ito